母の死

「全身黄色くなったら死ぬって」

夜の病院のロビーで響く兄の声。


母は「死」と関わるにはまだ早すぎる46歳だった。

原因=癌。

10年近くの間、ポリープ、乳がんから色んな所へ転移を繰り返し大腸癌でなくなった。


我が家は母と10歳離れた兄と私の3人家族だった。

母は私が幼稚園の頃から入退院を繰り返していて、退院したかと思えば半年後にまた入院。

だから、母親と過ごした思い出ってのは正直あんまりない。

何度も入院を繰り返した母、抗がん剤も放射線治療もできる治療はできる限りやった。

相当辛い治療だったけれど 子供の前では無理に気を使って いつも元気な素振りを見せていた。

あの頃の私はそんな母親の辛さも苦しさも気付くことができなかった。

今考えてみると母は相当無理していたんだと思う。

誰かに頼りたかっただろうし、したい事もたくさんあったはず。

でも母はいつも自分より私や兄や他の人優先で女手一つで私たちを育ててくれた。

本当に強くて逞しくて尊敬できる人だった。


私が10歳くらいの頃

夜中に病院から「母の状態が急変した」と連絡があった。

深夜、急いで車に乗り込み兄と病院へ向かう。

兄が医者に呼ばれ戻ってくると暗い顔で私にこう言った。

『全身黄色くなったら死ぬって』

唖然として言葉もでなくて ただただ涙ばかりが溢れた。

なんにもできない自分の無力さに。

母が消えるという現実にあの時の私は泣く事しかできなかった。


いつ死んでもおかしくないと言われてから1ヶ月以上たったある日。

もしかすると母は生きるんじゃないだろうか?なんて思っていたある日。

終わりは突然やってきた。

病院のベットの上で私の手を握り締めていた手が一瞬きつくなると

一秒もしないうちにその手がゆるくなった。

「ご愁傷さまです。」と手を合わせる医師の声。

信じられなかった。

信じたくなかった。

私は声を出して泣いた。

人目なんて気にしないで泣いた。

周りを見渡すと、何もなかったように手馴れた手つきで母の荷物を片付ける親戚。

あわただしく準備を始める看護婦さん。

兄はずっと壁を見ていた。

そしてただ泣くばかりの私。

あの場のすべてを憎んだ。

何よりも自分を一番憎んだ。

あの日

私は強くなると決めた。

もう弱音もはかないと決めた。

泣いてばかりいられなかった。

もう甘えられる人はいない。

我侭聞いてくれる人もいない。

叱ってくれる人も。

休みの日にデパートに連れていってくれる人も。

美味しいお弁当作ってくれる人も。

強くならなきゃいけない。

私が母の代わりにならなきゃいけない。

子供ながら勝手にそんな決意をしたりした。


してあげたい事もたくさんあった。

話したい事もたくさんあった。

いなくなってからしか分からない事もたくさんあった。

だから私はもう2度と後悔しないように精一杯人生楽しまなくちゃいけないな。

それが私にできる最後の親孝行。

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